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河北新報・連載コラム「微風旋風」第七回『風の生まれた場所』


 「風の生まれた場所」

 近所を散歩していたら鮮やかな赤が目に飛び込んできた。住宅の庭で山茶花が咲いていたのだ。でもこの屋敷の住人はいない。門扉は閉じられ、立ち枯れた草がそのままになっている。いつから空き家になったかは知らない。主人なき庭で花を咲かせ、吹く風にその花びらを散らしている。亡き人が風になって、庭を飾るようにひとひらづつ地面に置いているかのようだった。

 約400年前の1611年、慶長三陸地震が発生した。東日本大震災と同規模の揺れと津波が東北を襲った。そのわずか2年後、仙台藩主伊達政宗は領内の石巻(石巻市)に近い雄勝湾(旧雄勝町)で船を建造(諸説あり)し、支倉常長ら家臣を慶長遣欧使節団としてスペインとローマへ派遣した。彼らを乗せた帆船はどんな風を受けて海を渡ったのだろう。そして彼らはどんな風を起こしたのだろう。 

 震災から6年後の2017年、雄勝小・中併設校から校歌の作詞・作曲の依頼があった。同校は旧雄勝小・中と旧大須小・中の4校が統合してできた新設校だ。中でも旧雄勝中には震災時、3階建ての校舎を越える津波が襲来、地域は壊滅的な打撃を受けた。作詞に際し大切にしたのは、この地に生きる彼らの歌声が、未来への風を起こしてほしい−という祈りの心だ。

 歌詞の2番には江戸時代から続く土地の歴史を踏まえ、「その名刻む月の浦。大海原航海に、藩祖の願い、造船の音」と政宗が抱いた大志を織り込んだ。3番には「時の苦難、先人の。山に港にこだまする。三陸の波越えてもなお、この地の恵み畏敬の心。忘れず歩め集いし友と、心身ともに研鑽の道」と、震災の記憶と復興への意志、子どもたちへの励ましを込めた。各番の結びは「この学び舎で誓い合おう。雄勝の風、吹かせると」の一節で閉めた。

 風が吹く、風を吹かす。昔から人は風に思いを寄せ、風には神霊が宿るものだと考えてきた。今姿なき風に託された願いに思いをはせてみる。風に先達の心を見て、風の生まれた場所を想像してみる。

 半年に渡って「微風旋風」を担当させて頂いた。今回が私の最終回。お付き合いくださり、ありがとうございました。良い年をお迎えください。 



  河北新報朝刊・寄稿コラム「微風旋風」No.7(2020年12月17日・文化面掲載)
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河北新報・連載コラム「微風旋風」第六回『はやしことば』

 
 「はやしことば」

 作曲の醍醐味は三つある。一つは「主題との対話とその先にある発見」。主題を調べ、訪ねてゆく中で見えてくる景色との遭遇。二つ目は「奏者への伝達と実演」。自分の中での幻視・幻聴が他者によって再現される時。三つ目は「観衆に向けた演奏」。曲が世の中に産み落とされる瞬間。3度も喜びを味わうことができる。

 東日本大震災後は、学校のオリジナル和太鼓曲を書く機会が増えた。そのテーマとするのは、学校の所在地の地名、その地の偉人、流れる川や望む山、主な産業、そして災害の記憶と記録などだ。土地の歴史や営みを調べては、ここに生きた人たちの心情を表現しようと取り組んだ。私たちが暮らすこの地でこれまでに何があったのか。目の前の風景が当たり前ではなく、さまざまなことがあった上で今があるのだと確認するために。子どもたちの思いを巡らす依り代を作ろうと思うからだ。

 「岩出山伊達ばやし」(大崎市岩出山小)は、伊達政宗から継がれた城下繁栄への願いが、「仙台町方ばやし」(仙台市南材木町小)は、城下町の町方衆の気概がそれぞれテーマとなった。所在地名の由来が「核」となったのは大崎市敷玉小の「石神」。小川を渡る踏み石が神であったという伝説が元になった。宮城県立支援学校小牛田高等学園の「船入囃子」のタイトルは、学校周辺が大昔入江だったとする説から着想を得た。私立富岡幼稚園(福島県富岡町)の「あの空へ」は、帰宅困難区域にある夜の森地区の桜を思いながら作った。

 それぞれの創作現場で、彼らは自分たちのお囃子を作り出す。私は決まり事を多くしたくないので「掛け声」は最小限しか譜面に書かない。練習を重ね演奏が一つになるに従って、「ハッ」「ソーレ」などの声が自然に生まれてくる。タイミングを合わせる「掛け声」から、次第に仲間を励まし鼓舞する「はやしことば」に変わってゆく。風景や物語の中に入って、彼らだけの祭りを創造し始める様子は感動的だ。作曲の醍醐味とは、よく考えてみれば、子どもたちの思い描く力が発揮される瞬間に立ち会えることだった。


  河北新報朝刊・寄稿コラム「微風旋風」No.6(2020年11月19日・文化面掲載)
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河北新報・連載コラム「微風旋風」第五回『一番高い芸術とは』

 「一番高い芸術とは」

 私が創作活動を生業と決めたのは32歳の時。公務員を辞し、「道場」という名のプレハブ小屋を建てた。すると、そこに多くの若者が集った。そして共に研さんを重ねた。あれから20年がたち、当時の若者たちは「なりたい自分」を見つけ、巣立っていった。良い時ばかりではなかったが、その道のりこそが、自身と向き合う好機であった。自分のなすべき仕事とは、世の中の役に立つとは、誰かの評価に左右されず静かに働くとは、何か。まだ何者でもない私だが、若者に向け、「なりたい自分」を見つけたのなら、それを諦めないで続けていけと伝えたい。 

 37歳で夭逝した宮沢賢治は、多くの言葉を残している。「農民芸術概論綱要」では、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。未完だった「盛岡中学校校友会雑誌」への寄稿「生徒諸君に寄せる」では、「諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ」。童話「マリヴロンと少女」では、「清く正しくはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくる」「それがあらゆる人々の一番高い芸術です」。

 彼が求め続けたテーマには、 自分の中の光を見つけ、それを信じ、社会のために励めという次代へのメッセージが込められている。羅須地人協会で実践したかったことは、農民に芸術の素晴らしさを伝えるだけではなく、その仕事や生き方こそが芸術であるのだと教えることだった。協会はそのための「道場」だったのだと私には思える。

 賢治が生まれた1896年には三陸大津波、最愛の妹を亡くした翌年の23年には関東大震災、没年の33年には三陸地震大津波がそれぞれ発生。戦争に突き進む日本、足元の貧困。自由という概念がゆがめられてゆく瀬戶際。自然への畏怖や敬い。彼は人知や科学の未熟さへの自覚と期待を常に意識しつつ、思想という岩を残そうとした。本当の豊かさとは何かと、問い続けて。

 2014年9月21日、賢治の命日に宮沢賢治記念館(花巻市)であった行事で、私は音楽劇「マリヴロン楽隊」を結成した。以来続く公演活動の中で、彼の一貫した問いに心を打たれる。あらゆる人の一番高い芸術は、その生き方と心のあり方にこそあるのだと。


  河北新報朝刊・寄稿コラム「微風旋風」No.5(2020年10月22日・文化面掲載)

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河北新報・連載コラム「微風旋風」第四回『物語を紡ぐ音楽』

   「物語を紡ぐ音楽」

 最初に曲を書いたのは22歳の時。あれから30年たった。きっかけは小学生の頃に地域で始められた「子ども太鼓」にさかのぼる。会は結成当初こそ盛り上がりをみせたが、進学や就職とともにメンバーは減少。10年が経過する頃には存続の危機に陥った。長年活動し、太鼓の楽しさや仲間との連帯感、聴衆との共感を経験してきた私は、この灯を消してはならないと考えた。

 和太鼓の魅力はどこにあるのだろう。一つは「音に内在する郷愁」。祭や盆踊りを連想するからだろうか。音に懐かしさがある。もう一つは「打音に広がる想像世界と物語性」。打音だけなのに時代や風景、情緒が受け手に伝わる。映画ではなく書物を読むように、テレビではなくラジオドラマを聴くように。情報を減らすることで聞く人の想像力をかき立て、物語を描かせる特性がある。そして「神秘」。神主や僧侶が鳴らす太鼓は、目に見えない対象に祈りをささげる「言霊」だ。この音に言葉を超えた言葉が託される。

 では、その太鼓の魅力を踏まえて、会をどう導くべきか。それは、故郷に眠る宝を見つけ出し、それを主題とした、受け継ぐに値する演目を作ることではないか。太鼓を用いて音を帯の模様のようにアンサブルで紡ぎ、音楽や物語を形作る。イベントの出し物ではなく、テーマに基づいた演奏会とすることで、奏者自身に演奏の役割と意義を自覚させ、学びの場とする−。こうした考えに至り、視界が開けた。

 しかし、その曲や物語は誰が作るのか? 作曲を依頼するお金などない。すぐに壁突き当たった。もう自分で作るしかない。これが作曲と演奏会活動の始まりだった。初めての演奏会を経て、会員の心には、曲の物語を想像して演奏するという知的な興味が芽生えた。すると辞める人は減り、仲間は増えていった。会は年1回の演奏会を続け、昨年第30回公演を迎えた。

 私は今、和太鼓だけではなく器楽や合唱曲も書く。その数は286曲になった。創作の源は、最初の曲を書く時に得た気付きと学びにある。10月4日、北海道七飯町で、作曲・指揮・芸術監督を務める「石川啄木記」と題した和太鼓音楽劇を上演する。啄木の心の風景を紡ぐために。


  河北新報朝刊・寄稿コラム「微風旋風」No.4(2020年9月24日・文化面掲載)

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河北新報・連載コラム「微風旋風」第三回『ツバメと私』


   『ツバメと私』

 渡り鳥のツバメは毎年同じ場所にやってくると聞く。本当にそうなら何となくうれしい。というのも昨秋にちょっとした関わりを持ったからだ。

 巣立ちから10日ほどの子ツバメ1羽が、わが家の玄関先をねぐらにしたのだ。夕方にやって来て朝早くどこかに飛んでいく。そんな日が続いた。親ツバメは日暮れまで近くの電線に止まり、子の様子を見届けてからどこかに飛び去り、残った子だけが顔を体にうずめて寝た。不思議なもので愛情が湧いた。静かにドアを開け、何度も無事を確認してみたりした。子を何羽授かったのかは分からないが、全ての子に親は同じことをしているのだろう。

 空中を飛んでいる虫を捕まえるツバメ。稲作の町では昔から害虫を食べてくれる貴重な鳥だ。天敵がいない、人の出入りが多い場所に営巣するので、商売人にとっては商売繁盛の証、「福鳥」とされてきた。玄関先に巣があると当然ふんが落ちる。その汚物を嫌って、客が寄り付かなくならないようにと店主は店先を奇麗にする。といった極めて前向きな行動を生むほどだ。

 営巣するかどうかで吉凶を占うとはすごい鳥だ。春から立夏に飛来し繁殖する。人間を信じているからだろう。だからいとおしいのかも知れない。越冬のため東南アジアへ渡る秋、子の旅立ちを見送る親のような切なさも芽生えてくる。

 では人間の子育てはどうだろうか。私も3人の子宝に恵まれた。長女は米国人と結婚、次女は親と同居しながら仕事を持つ。長男は中学生。養育と自我形成、自立と支援。私は自分の仕事に夢中で、親として責任を果たせたかどうか自信がない。子育てが過ぎてゆくと同時に、今度は親の介護がやってくる。家庭内での自身の役割がグラデーションのように移り変わってゆく。育てられ、育て、そして-。役割と立場が転換する中に今の私がある。

 今朝はツバメが家の周りでにぎやかだ。今年もわが家には巣を掛けてくれなかった。まだ私に徳が足りないということだ。あの時の子が親鳥となって戻ってきたのだろうか。元気で自由に飛んでいるのであれば、それだけで幸せだ。そもそも親とはそのようなもの。さて、玄関掃除でもするか。



  河北新報朝刊・寄稿コラム「微風旋風」No.3(2020年8月27日・文化面掲載)

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河北新報・連載コラム「微風旋風」第二回『滴る水の教え』

   『滴る水の教え』

 忘れることのない大叔父の言葉。私が而立を迎えるまで彼はかくしゃくとしていた。祖母の弟で、仙台藩伊達家家臣早川家の末裔。武士の誇りとでも言えばよいのか、質素倹約で学問の人であった。幼き頃から仙台にある彼の茶の湯の庵「滴水舎」を訪ねたが、全てを見透かしているかのような、大叔父が放つ独特の緊張感の中で、「庭の草花に季節の移ろいを感じなさい」と諭した。常に周囲の変化に心を配りながら暮らすことを、彼は独自の言葉で「感情生活」と表していた。

 彼の一家は、明治期に武士身分を失った。戦前戦中の過酷な時代を生き抜いた。戦後は国立病院で事務や手術の記録絵画を描く仕事をしつつ庵を開き、老年期は茶人を貫いた。

 豊かさとは、芸術文化における「誠」とは何か。未熟な私に「勉強ではなく学問を」「慮る」「尋ねる」「内省と自己対峙」という命題を与えて、それらを感情生活の実践を通して学んでいけ、と導いてくれた。

 茶道の作法も教わった。しぐさや動きといった形の大切さだけでなく、わびさび、精神性、内面と向き合う姿勢など、所作が持つ意味を説いてくれた。邦楽の創作を始めたばかりの私に、世阿弥の「風姿花伝」にある「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」を問うた。今となれば、それが私の営みの座標となっている。

 成人の報告に大叔父を訪ねた日。彼は大層喜び、茶でもいれようと立ち上がった。両手に茶道具を持ち、あろう事か白足袋を履いた右足のつま先で襖を開けた。「忙しい時は足も使って」と、悪びれることもなくほほ笑んで言う。度肝を抜かれたがすぐに合点した。これも大叔父の言う感情生活なのだ。変化を察し、融通を利かせ対応する。「お前も今日から仲間だ」と、成人が許された気がした。

 お点前が終ったころ「足がしびれているなら崩しなさい。それで話が上の空になっては意味がない」「形は重要だが、それだけでは意味がない。表層ではなく深層を抱え持つ型でなければ」と助言をくれた。「型を身に付けていない者に型破りはない」のだ。自身の心の型を尋ねて行こう。いまだ初心のわれにまた言ってみる。

  河北新報朝刊・寄稿コラム「微風旋風」No.2(2020年7月30日・文化面掲載)

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ミュージカル「ナイツ・テイル」 IN SYMPHONIC CONCERT

関係する方々の出来る限りの対策のもと、東京芸術劇場の全公演が終了しました。
来週からは東京オペラシティでの公演。ますます輝きを増す舞台に注目ください。
最高のカンパニーとお客様に感謝。

ミュージカル「ナイツ・テイル」 IN SYMPHONIC CONCERT
東宝ホームページはこちらです[右斜め下]?
https://www.tohostage.com/kt2020/
ナイツ・テイルポスター.jpgナイツ・テイル自分写真.jpg
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河北新報・連載コラム「微風旋風」第一回『忘れたとき失うもの』


   「忘れたとき失うのも」

 私は、宮城県北部の田園地帯、美里町(旧小牛田町)で魚屋を営む家に生まれ、昭和の匂いを嗅いで育った。

 父は塩釜の仕入れから帰ると、自転車にアルミ箱を積み行商へ向かう。戻ると店は夕飯の支度する客でにぎわう。行商先や常連からの注文も重なり、配達と店の客の応対で忙しくなる。

 小学生の頃から私は配達を手伝った。玄関に届けてしまい「ここは客の入口、あなたは勝手口」としかられたり、お駄賃をもらったりした。農家には通い帳を持参し、掛け売りをした。収穫後の一括返済や、新米で支払いが利いたので感謝されていた。放課後に友達と遊べないことは嫌だったが、家の役に立つことはうれしかった。

 田舎の生活を支えた小売店や商店街は、私が中学生になった頃、大型小売店の進出とともににぎわいと活気を失う。買い物籠を持った客が店の前を素通りしてゆく。父は程なく店を閉めた。

 店は街の風景だった。商店街には人情やおせっかいがあった。私の成長の軌跡は恥ずかしいほど知られていた。「これ食べてみて」と買ってもいない商品をよく頂いたものだ。昭和が終幕を迎える頃に消えていった店主の笑顔が懐かしい。

 東日本大震災の時、近くに残っていた食料品店は、余震や停電、断水の続く中、発生から数日後に店頭販売を再開した。これは食を繋ぐ心意気の表れだ。商売人の矜恃があったのだ。

 消費行動の変容や震災に耐え忍んだ店も、今回の新型コロナウイルス感染症の影響で閉店を余儀なくなれているところがある。普段もっと店に行っていればよかったなどと、身勝手な感傷や後悔が芽生える。自らがその存在を忘れた時、既に失われていたのだと気付かずに。

 消費意識が大きく変わり、利便性や効率化が優先される世の中でも、なくしてはならないものがある。老舗の食堂閉店の知らせを聞きつけた客が、報道の質問に答えていた。「もっと続けてほしかった。思い出の店だったのに」この一言が耳から離れない。

◇ 佐藤三昭(さとうみつあき)
作曲家・作家。1967年宮城県小牛田町(現美里町)生まれ。古川高卒。同町の創作和太鼓「駒の会」で邦楽を始める。01年音楽制作事務所「3Dファクトリー」を設立。国内外で活躍のほか小中学生への指導に注力する。

  河北新報朝刊・寄稿コラム「微風旋風」No.1(2020年7月2日・文化面掲載)


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「ひとひらのねがい」

さとう宗幸さんに、先日、詩を託しました。
昨日のテレビ番組で歌ってくださいました。
「ひとひらのねがい」という一編の詩を。
故郷に立って、故郷に生きる敬愛する先輩。
柔らかな旋律と抒情豊かな歌声。
みなさまの心の故郷に届きますように。

風に言葉があるならば… 
言葉に恩みがあるならば… 
恩みに記憶があるならば…
記憶に香りがあるならば…
    
留め置かれた部屋の窓越しに
去年と違わぬ初夏の花ばなが
美しく咲いているのが見える

私はいまこの里に居て
何に気づき、何を願い
祈り、伝えることができるのか
ひとひらの言の葉に
しずかに紡ぐねがい

「水仙華」「だれかの風であれ」に加え、
拙者のみっつのを詩を歌ってくださる、
さとう宗幸さんに心より感謝申し上げます。

ミヤギテレビ「OH!バンデス」
『一枚の楽譜』(2020.4.12 ON AIR)
https://www.mmt-tv.co.jp/bandesu/articles/gakufu/62c71onnuxybsd7u3a.html
(この番組でのさとう宗幸さんの生演奏が、この曲の初演となりました)

ひとひらのねがい
作詞:佐藤三昭
作曲:さとう宗幸
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〜佐藤三昭・第二童話・短篇小説集「ゆめのまたゆめ」刊行のお知らせ〜

〜第二童話・短篇小説集「ゆめのまたゆめ」刊行のお知らせ〜
jpeg第二童話・短篇小説集・紹介ネット写真.jpg
本日より、ご予約の受付を開始させて頂きます。
(メール・FAX・TELにて)
ご興味をお持ちの方は、どうぞ下記のURLをお尋ねください。
あなたさまのお手元にお届けできますよう願っております。
詳しくはこちらをご覧いただけましたなら幸いです。
 https://sansho6.wixsite.com/mitsuaki/publish



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− 作品に寄せて −(抜粋)  藤 岡 宏 章 (書家)

三昭さんの作品からは、どこか「賢治さん」(宮沢賢治)の香りがする。
賢治さんは「あらゆる自然の力を用い尽して諸君は新たな自然を 形成するのに務めねばならぬ 諸君はいま この颯爽たる諸君の 未来圏から吹いて来る 透明な風を感じないのか」と書いているが、三昭さんはその「風」を感じている一人である。
 自然と人との融合。擬音、擬声、擬態を散りばめながら擬人を用いた人間世界の表出。農と民とその地に根ざす芸との関わり。季節の映像を背景とした素朴な中にも息遣いを感じる人の営み。本来だれもが持っているが成長とともにいつしか消えてしまう宇宙観。どこかほのぼのしていたり、甘酸っぱいようであったりしながら、でもせつない。そんな風が読み人の頬を撫でていく。
 三昭さんの作品には、三つの詩集そして第一童話集もそうだが、必ず取り上げている世界がある。「生」というものをどうとらえ考え、そして「死」とどう向き合い受け止めていくか。それぞれの境遇の中で様々なありようがあることを前提としながら、「一人の人として考えてみようよ」と投げかけている。
 このような作品との邂逅は、私たちに人としての、さらには自然界に生きるものとして「あたりまえの中にある幸せ」とは何かを改めて考える機会を与えてくれる。

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− ゆめのまたゆめ −(抜粋)  佐 藤 三 昭(著者)

 夢をみる。
 例えばそれは、心がサムエル・ウルマンの青春の風景を歩いているとき。未来に実現させたいという願望。思い描く希望が向かう。
 例えば、心が自らの体を離れて白秋の風景を俯瞰しているとき。寝ているときに導かれる観念や心像。記憶と想像が絡みあう。
 どちらも夢をみている。
 よく問われる。あなたはなぜ音楽や物語を作るのか、作ることができるのかと。しかし私はその答えを持ち合わせていない。日々歩む道は、希望と迷いの中にあり、訪ねても袋小路に突き当たる。
 例えばそれは、ふたつの夢。心と体がひとつの自分と、心と体でふたつの自分。意識上と意識下のふたつの夢の結合。それが私のそれでしかない。
 例えば、夢のまた夢。自分が辿り着いたのか、何かに導かれたのか。その空間に居合わせてしまった自分を描く。なぜ音楽や物語を作るのか。私は、曖昧で唯一のこの方法しか、持ち合わせていないのだと気付く。
 夢に見ることと、夢を見たこと。それは憧憬と警鐘と対峙。私が描こうとするのは、それらを結合し凝縮させていこうとする希求なのかも知れない。
これらの物語は、そんな「ゆめのまたゆめ」である。わけのわからないところや幼稚なところもまた私自身。そのような夢の話をここに遺そう。  

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